あまり自覚のないまま、無責任な範囲から責任のある範囲へと遷移していった感じに経営者となっていました。つまり社員ではなく、労働基準法の外側であり雇用に関する法律的な保護を受けられない役員という立場、肩書きこそ聞こえは良いが実際にはむしろそれが足かせになるようにも感じたりもします。
お金と部材と人材を使って商いと行うこの立場について、大きな事を言わずとも社会貢献をしてこそ存続と発展があると考えています。
私の難題は人材。
人を育てる、教育に関する難しさについては何も問題とはしていません。問題は説得力という無形物。働きに来てくれる人たちはみな守る家庭があって、そこに各々の思惑があろうとも立場を把握し、妥協点を決めて可能な範囲で行動をする。これは至極当然のことで、このお互いがお互いでバランスを取り合い物事を進めていくと考えるわけです。
家庭がない。
一人身の自分には、この精神的ポジションが定まらないということが欠点となってくる。物事の正しさや説得力があっても、その人がなぜそうするのか、という部分に関する説得力は弱いものとなる。家に帰れば自分しかいないような人が、会社に来て正しく謙虚にしようとも自分の会社や私腹を肥やす以外の終着点が見当たらなく、もしくは見当たりづらくなるように思う。例え、いわゆる使う側、経営者であろうとも家庭があれば互いの立場は違っても守るものは同じで公平性を保つような形で人材を扱える、つまり、一緒に経営できる、ということ。
町工場の社長夫婦がパートさんに好かれながらみんなで頑張る会社、というのが一つの解の風景だろう。
働きに来ている人たちの生活の一部である職場、それを守れるように経営ができる人になるには、一番近しい他人である生涯の伴侶がいなくてどうする。と、思うわけです。
自分の立場と説得力、経営者としてのアイデンティティには嫁が必要と考えているわけです。